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2022.Oct.14〔Friday〕
「やまとうたは、ひとの心(こころ)を種(たね)として、よろづの言(こと)の葉(は)とぞなれりける」ーその3ー
「もっと知りたいと思う子は、それを勉強とは考えない。」
『毎日読みたい365日の広告コピー』収録 コピーライター:谷野栄治氏
こんにちは、塾長の太田です。
上に掲げたのは、半年ほど前、ある生徒さんの保護者の方と、面談をさせていただいたときに、お話をうかがっていて、思いだされたことば。
「勉強がおもしろくなってきたようで、家で勉強しています」と、お話いただきました。
学習塾で仕事をさせていただいていて、最もうれしいことは、生徒さんが、狭義の勉強をきっかけとして、前向きな姿勢をもってくれたり、自ら前に進んでいく“ちから”の端緒を感じさせてくれたりしたときです。
“おもしろい”ということについて、斎藤亜矢氏は『ルビンのつぼ』のなかで、次のようにおっしゃっています。
「漢字では「面白い」と書くように、目の前が明るくなることが「おもしろい」の語源だとされる。それまでの枠組みがこわされて光がさしこみ、見えていなかったものが見えるようになる。」
人間は、一瞬にしてすべての視点からものごとを眺められる存在ではないからか、本性的に悩む存在であると言えるかもしれません。さらに、特定の“仕事”をすることが、「社会に空いた穴をうめる」といったようなことだとしたとき(養老孟子氏がたとえられているように)、“全体性”を求める欲求と特定の“穴”に住まう状況の間で、(私は)悩むことがあります。
そうしたなかで、上述したような生徒さんの状況に立ち会えることが、仮にあったとするのなら、そうした“苦しみ”(人間存在に本性的につきまとうようなもの)のなかで、目の前に光を感じるような“なにか”、言い換えれば、祈りのなかで、一瞬、生命のかがやきが現出するような“なにか”に出会えて、何だか救われるような心境になります