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2022.Oct.11〔Tuesday〕
”うんこ”
こんにちは、塾長の太田です。
塾で仕事をしていると、たまに、生徒さんが、トイレに置き土産を残してくれることがあります。
そうした“うんこ”を目にしたときと、自分の“うんこ”を見るときのちがい。
正直申し上げて、明らかに、そのときの心境は異なります。
こんなことを言うと、塾講師たる者、生徒の“うんこ”を自分の“うんこ”と感じるまでにならないとは、生徒に対する愛情が足りないのではないか、なんていう叱責の声が聞こえてきそうです。
ただ、愛情という名のもとに、生徒さんを“わが子”のように、自分と同一視する視点は、危険性を孕みます。自分の論理で、他者を支配するという危険性を。
“他者”の“うんこ”と、“自分”の“うんこ”を目にしたときの心境のちがいは、“うんこ”が両義的なものであることを示唆します。
先日のブログで、“カラス”の両義性についてふれましたが、はたして、“うんこ”の両義的な性質とは。
まず、“自分”の外部にある“うんこ”としては、古くは『Dr.スランプ アラレちゃん』に登場する“うんこ”(“うんちくん”)や、少し前から最近にかけての事象としては『うんこドリル』の“うんこ”が想起されます。
そうした場面に登場する“うんこ”は、キャラクター化されており、何層かに渦が巻かれた、何だかこころがときめくフォルムになっています。
“うんこ”が忌避の対象であるとともに、そうしてキャラクター化されているところに、両義性を感じます。
さらに、人間が生みだす(生理学的な状況において)“うんこ”がそうしたフォルムにはなりえない(人間が自分でコントロールして“うんこ”の形状を決めることはできない)という点に、“うんこ”が自分の制御を超えたところにある存在であるという意味で、“うんこ”は、生まれながらに、既に“他者性”を秘めています(“自分”から出たものでありながら)。
上記のようなキャラクター化されたフォルムにするためには、仮に途切れることなくずぅーと当該物質を出せると仮定して、尻を360°何回転か(少なくとも3回転)するとともに、最後に尻の穴をすぼめて、ケーキのデコレーションのクリームのように、“あの”キュートなアタマの部分を形成する必要があります。
ただ、そうする過程を想像すると、体をシェイクさせるという身体的動作を伴うとともに、キャラクター化されたフォルムをつくりだすという意味で、そうしたプロセスは、自らを異化する“遊び”の要素に富んでいます。
まさに、高速回転するメリーゴーランドに揺られているような幸福感を伴った眩暈をおぼえます。
また、“うんこ”の両義性は、それだけにとどまりません。
自分の身体から外に出たばかりの“うんこ”は、まだ“自分のもの”という感覚がありますが(それゆえに、自分の健康状態をチェックする意味で凝視しても何も感じませんが)、仮に、道端で用を足してそのままにしたとして、一日以上経過したとき、それを“自分”のものとして認識して、拾うことができるか(懸命に探すことができるか)どうか。
私たちは、この世に生を受けて以来、“社会的人間”として記録され、追跡可能な対象となります。ただ、私たちが生みだした“うんこ”はいかに。それは、特定の個人から生みだされたものであるのにもかかわらず、少なくとも意識としては、私のものであると同時に、私のものでないようなもの。唐突なたとえですが、紙幣は、世間に流通する交換可能なものの代名詞のようなものであるのにも関わらず、道端に落としたとしたら、一日以上経過しても懸命に探す対象であるのと比較すると、“うんこ”には、その固有のにおいとともに、何ともいえない哀愁が漂います。
塾という空間(もちろん、トイレという限られた空間ですが)でときおり目にする、生徒さんの置き土産が(もちろん、置き土産がないか定期的にチェックしています)、両義的な人間存在から生みだされた物質の両義性を鏡として、あらためて、両義的な私たちを照らしてくれているような、そんな気がしています。