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2020.Jan.21〔Tuesday〕
”たわし”と”わたし”
こんにちは、塾長の太田です。最近、考えたことがあります。
”たわし”と”わたし”
一語、語順がちがうだけ。
でも、その語感の軽さと重さのちがいたるや・・・。
先日、あるテレビ番組で、“亀の子束子”の進化を知りました。
伝統的な技術は大切に、デザインや用途にあわせて行われている、たわしの絶え間ない革新。
わたしはどうか、自問自答します。
教育改革・大学入試改革の影響で、入試の出題内容に変化があることはもちろん、それぞれの生徒さんの状況も常に変わります。
塾講師は、そうした外的要因・内的要因・そうした要因が交錯して引き起こされる複合的要因による変化に合わせ、様々な問題を解いたり、それぞれの生徒さんに対する指導内容・アプローチを推敲したりと、指導理念に変化はなくとも、常に自らのスキルと姿勢の更新が必要です。
わたしは、どうなのか。
その検証を、外部機関に委託せずに自らするからには、たわしで身体を洗い、たわしで尻を拭くのと同程度の意識の覚醒が必要です。
反省と努力の日々が続きます。
そうしたことを考えていると、有名な高森顕徹氏の次の名言にも考えが及びます。
かんしゃくの「く」の字を捨てて、ただ感謝
ことばと存在。
軽くも深く、深くも軽く。
伝統と革新。そうした両義性を帯び、また、男性とも女性ともつかないアンドロギュヌスともいえる“たわし”の風貌に目をやると、何だか神秘的なものを感じ、生きる希望がわいてきます。