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2022.Oct.17〔Monday〕
“ブリコラージュ”
こんにちは、塾長の太田です。
先日、ある生徒さんが“和文英訳”問題を解いていたときに、表題を象徴するような場面に遭遇しました。
問題文の中にある“放課後(の英語)”が想起されないといった状況。そうしたことは、些細なことです。そこで、「英語と日本語はイコールではないから、日本語を英語にしようとするのではなく、“伝えたいこと”を英語の論理(語順)で単語を置いていくだけ。“伝えたいこと”に想いを馳せたときに、別の言い方が見つかるはず。」とアドバイスしました。そうしたら、その生徒さんは、“模範解答”から外れた、素敵な文を構築しました。
大学・大学院時代に、文化人類学を学んでいた私は、そのとき、レヴィ=ストロースの“ブリコラージュ”を想起したのですが、ブリコラージュについて、鷲田清一氏が『つかふ 使用論ノート』のなかで、次のように、洒脱に表現されています。
「ぴったり合うものがなくてもとりあえずあり合わせのもので凌ぐことを「やりくり」とか「工面」と言い、何かに転用したり、何かで間に合わせること、つまりちょっとした知恵と工夫をこらしてその場その場に即した適切な対応や処理ができることを「融通がきく」と言うが、これはレヴィ=ストロースによってブリコラージュと呼ばれたものに相当する。」
ブリコラージュに象徴される営みは、“合理性”に基づく方法(合理的な物事への対処のしかた)とは異なるものです。
ただ、現実世界における複雑で明確な解のない諸問題に対し、条件が極端に限られたなかで既に用意された解を選ぶといった意味で、“合理性”の極致とも言えるテスト(それに向けた限定的な勉強)に関しても、そうした営みが功を奏することもあります。
テストを受けるときに、分からない要素が少なければ少ないほど、正答に至る可能性は高くなります。それは疑いようのない事実で、できる限り、そうした状況になるように、勉強を積み重ねるわけですが、テストが難しくなればなるほど、分からない状況の中で、手持ちの材料を使って、どのように対処していくかが重要な場面に直面します。
例えば、選択肢問題。また、文脈から類推して解く問題。さらに、英作文。
ある程度の勉強量が必要不可欠なものであることを前提として、私は、指導時に、ただ解を伝達するのではなく、生徒さんがそのとき持っている(潜在的に使えるものも含め)“手持ちの材料”をいかに使うかを重視することを大切にしています(したがって、“待つ”時間が長くなる傾向にあります)。
こうしたことを考えていると、先日、クローゼット下のファイルの山からカヒミカリィ氏の“ことば”を発掘したときに(そのときのことは、以前のブログで紹介させていただきました)、それと同時に再発見した、ある“資料”の鼓動が聞こえてきます。
その“資料”では、ごみとされるプラスチック製品を、花に見立てて生ける作品(洗剤の容器などを花瓶、プラスチックの蓋などを花に見立てて生けた作品)が紹介されていて、作品を制作された貴山宏美氏が、次のようにおっしゃっています。
「ゴミが落ちていたりすると、イラッとなることもある。でも、正しく!と思いすぎて毎日をギスギス過ごすより、笑いとばしちゃうことも生活の知恵なのかも、と思う。笑いの中に、新しい発想や創造が生まれることもある。」
狭義の学習においても、受験時に、知識というコマが全てそろっているとは限らない(そうしたことは、現実としてほとんどありえない)といった意味で、“完璧”な状態でいるわけではなく、また、初見の設定の問題で、文脈から判断する必要性があるときに、頭をカッチカチにしていたら対応するのは難しいため、上述してきたような“遊び”の部分が大切であることを、あらためて感じています。