ブログ
2023.Jun.22〔Thursday〕
“マヌルネコ”とその両義性―なぜ魅かれるのか―
こんにちは、塾長の太田です。
表題の“マヌルネコ”に関して。
モフモフしてさわりたいのに、さわれない。
そうした理由は、「那須どうぶつ王国」さんが、制作された、次の動画に示されています(YouTubeでみることができます)。
マヌルネコのうた(Pallas’s cat song)Official MV
マヌルネコのことは、かなり前に、NHKのある番組を偶然みて知りました。
モンゴル、チベット、中国からイラン西部の山地に暮らす野生のネコということで、当該番組をみていて、その環境への適応のしかたに、感動をおぼえたことを記憶しています。
特に印象に残ったのが、子どもに狩りのしかたを教えている場面(厳しい環境で生きていくための術として)。
全面に押しだしてはいませんが、当塾には複数のキャラクターがいます(ホームページで紹介しています)。
当該キャラクターのなかに、ネコの“コーチャン”がいます。
“コーチャン”の着想は、“マヌルネコ”から得ました。
キャラクターを設定した当時のことを想起し、あらためて考えます。
特定の時間・空間のなかで生きる私たちにとって、“学習”の意義は、常に“一貫性”と“ゆらぎ”のなかにあります。
そうした意味では、時代・環境に適応する学習をする必要性があります(そうした“時代・環境”やそのなかでの“必要性”を、誰が、どの立ち位置から発しているかによって、その意義は変わります)。ただ、学習塾においては、現時点での制度のなかにおける試験に対応するという側面に焦点を合わせる場面が多いことも、そうした“必要性”のなかの一要素ではあります。
そうしたことに苦悩するのが、塾講師というものではないでしょうか。
上述したことに関する思索に逡巡するなかで、想起されるのが、やはり、マヌルネコの親が子に狩りのしかたを教えている場面。
記憶のなかにあるその場面を、一言で表現するとすれば、それは、「魚を与えるのではなく、魚をとる方法を教える」ということになるのではないかと、思います。
ここで、“マヌルネコ”が躍動する大きな舞台から、我が家のネコが過ごす小さな空間に視線をうつしたとき。
”マヌルネコ”は、本来、異国の過酷な環境のなかで生きているが故に“獰猛”とされる猫であるという事情があって、上述したような両義性を帯びることはすぐに首肯できることでありますが、家で飼っている猫についても、そうした側面があることが、やはり、猫の魅力なのではないでしょうか。
たとえば、我が家の“かん太”くん。
夜、トイレに起きたときなど、寄ってきたと思って、なでると、すぐにスタスタと逃げるなんてときがあります。
そんな“かん太”くんですが、休日の午前中に(昼夜逆転している生活をおくっている私にとっては、休日としては早い起床です)、寝転がりながらMLBをテレビ観戦しているときに、私のもとにやってきました。
私の目前に迫る(なにしろ、寝転がりながら観ているため)“かん太”くんの肛門が大谷選手の活躍の映像をはばんだとき、“かん太”くんの肛門から“チョコレート”がコーティングされた棒のようなものが…。
いつものように、“かん太”くんのおしりをトントンするのですが、あまり肛門が近づかないように、きっと、いつもよりは、抑え気味にトントンしていたのでしょう。
かん太くんが、わずかな私の気持ちの変化を読みとったのか、いつも以上に甘えたしぐさを見せていました(“かん太”くん自身は、もちろん、肛門から飛び出ているものには気づいていません)。
“かん太”くんは、私が思っている以上に、私のこころを読んで、その上で、私のことを“もてあそんだり”、逆に“甘えたり”しているのかもしれません。
そうした意味では、“かん太”くんの方が、私より上手で、猫にしては重量級の“かん太”くんに、私はつねに“投げ”を喫しているということになります。
“かん太”くんは、“処世術”や“講師としての立ち居振舞い方”を私に教えてくれている、そんな気がしています。