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2022.Nov.25〔Friday〕
六角精児氏
こんにちは、塾長の太田です。
表題の六角精児氏に魅かれます。なぜ、ひかれるのか。
その一つの理由は、間違いなく、NHK『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』という番組から感じられるトーン。
それは、寝る、呑む、ざっくばらんといったトーン。
さらに、“精児”という芸名から感じられるニュアンス。
精児氏の芸名は精子に由来するとの説も。
仮にそうだとすると、児という文字から連想される児童とのギャップにクラクラします(そもそも、“チゴ”と“オトナ”の線引きの不明瞭さにアタマが混乱します)。
以上のことを考えていると、なんだか雑然としてきて、なぜ私が六角精児氏に惹かれるのかが、ますます分からなくなってきます。
そうした眩暈におそわれていると、高橋源一郎氏と辻信一氏共著の『「雑」の思想』のなかの次の一節が想起されます(当該部分は高橋源一郎氏がおっしゃっていること。長い引用となりますが、問題の核心にふれる部分であるため、引用させていただきます)。
「洗練されてくると、国家に近づくものも出てくる。宗教思想としては、「雑」を捨てて純化し、「原理」を求めるようになる…。
当然、純化していくことに抵抗する人たちもいます。そして一番ラディカルに抵抗したのか親鸞であり浄土真宗なんですね。浄土真宗の最大の特徴は「称名念仏」、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏できるということです…。
親鸞を批判する人たちは「正しい」のかもしれない。けれど、彼らが「正しい」のだとしたら、救済されるのは、経典を読めて仏教に詳しい者だけになってしまいます。親鸞が向きあっていたのは、仏教の知識など何も知らず、ただ生まれてきて死んでいくだけの人たちでした…。
回数が重要ではない、唱えようと思う気持ちが大事だと。だとしたら、思っただけでいいことになってしまう。ぼくは、おそらく親鸞は、最終的には唱えなくてもいいと思っていたような気がします。そうなるともう、浄土真宗も仏教もない。要するに、宗教の力なんてなくても救われる人は救われるし、救われない人は救われない。そういうところまで親鸞は行き着いてしまったと思います。
…
念仏を唱えるだけ、言葉をつぶやくだけじゃダメだと、当時の偉い僧侶たちが親鸞を批判したわけですが、ぼくはそれはおかしいと思います。なぜなら、文学もまた言葉だけで表現されるものだからです…文学は「称名念仏」そのものです。だとするなら、親鸞の言葉への立ち向かい方は、文学者に近かったのかなと思うんです…。
…キリスト教的なものが資本主義社会を支えてきたのは、世界を理解できる構造にしていこうとする性質があったからじゃないでしょうか…。逆に、なんだかわからなくて、しかもたくさんあるものは非常に怖い。でも、そのなんだかわからないものを、そのままの状態で受け入れることを仏教はできていたんじゃないのかと、親鸞を読んで思いました。」
“分ける”ことで成立しているかのように見えるこの世界で生活をしていて、仕事から帰ってきたあとの時間や、休日に、六角精児氏が出演されている『六角精児の呑み鉄本線・日本旅』をみるということにも、私が惹かれる理由の一端があるかもしれません。
以上のことを学習塾という文脈で考えたとき、“分ける”ことを余儀なくされる立場にあって、私が上述したことに惹かれる感覚を大切にしなければならないと、あらためて感じています。