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個別指導塾|安曇野市穂高|Minori

ブログ

2023.Jul.16〔Sunday〕

“声”

こんにちは、塾長の太田哲です。

理由は定かではありませんが、ふと思い出したことがあります。

大学生のとき。

ある夏の日、一本の電話がありました。

アパートの一室で悶々としていた、童貞だった私は、若くてきれいだと想像される電話口の女性の声に誘われるがままに、強引な手法の英会話学校に入ってしまったことがありました(総合的に考えると、悪いことばかりではなかったのですが…)。

待ち合わせをしていた駅で電車を降りると、改札口の向こうに、若いグラマラスな女性が(電話で話した女性)。夕陽を背に、童貞の私にとっては、想像力をかきたてられた瞬間です。しかし、そのときの私には、その後の当然ともいえる“流れ”に関する想像力が欠けていました。当該学校に場所を移して、契約前に悩んでいると、“ボス”が出てきて、逃げ道がない展開に…。

当該学校に通いつつ、ひねくれている私は、別のところから同様の電話がかかってきたときに、二社ほど話を聞きに行きました。

“武士”のような(“本来の武士”という意味ではなく、“表層的な”意味における)考え方をしている私は、同様の手口の“ボス”をやっつけないと、生きる面子が立たないと思っていたのでしょうか。“ボス”の面々から、最後は罵詈雑言を浴びせられながらも、その場から、二度、“帰還”しました。

なぜ、上述した夏の日のことを思い出したのかは、わかりません。

ただ、7月15日にテレビ東京で放映された「出没!アド街ック天国」で、三島由紀夫氏が“自決”された前に撮影した写真について、紹介された場面がありました。

その後、自室の押し入れを改装した本棚から、貪るように手にとった本があります。

それは、三島由紀夫氏の『愛の渇き』(新潮文庫)です。

すっかり黄ばんだその本の中には、私が青年のとき、アンダーラインを引いたいくつかの場所が。

その中から、少し抜粋します。

……しかし物事をまじめに考えすぎないことが悦子の信条であった。素足で歩いては足が傷ついてしまう。歩くためには靴が要るように、生きてゆくためには何か出来合いの「思い込み」が要った。(21ページ)

ほんのちょっと眺め方を変えただけで、人生が別のものにもなりうるようなこうした変化。悦子は居ながらにしてこういう変化が可能であると信ずるほどに傲慢だった。所詮人間の目が野猪の目にでも化り変ることなしには仕遂げられないこの種の変化。……彼女はまだ肯おうとしない。われわれが人間の目を持つかぎり、どのように眺め変えても、所詮は同じ答えが出るだけだということを。(87ページ)

結果だけから見れば、彼女の情熱は、人が自分を苦しめるためにそそぎうる情熱の限りなさを、不気味なくらい確実に証明するものだった。希望を失うためにだけこれほどまでに注がれる情熱は、ともすると、人間の存在のあらわな形式、それが流線形であれ穹窿形であれ、或る存在の形式の、忠実な模型であるのかもしれなかった。情熱というものは一個の形式であって、それだからこそ人間の生命をあれほど十全に発揮させる媒体ともなるのである。(111ページ)

“過去”に埋もれていた“声”が、私が見失いつつある何かに、あらためて気づかせてくれている、そうした実感を抱いています。