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2023.Jun.16〔Friday〕
姪っ子、猫にひっかかれる。
こんにちは、塾長の太田です。
先日、姪っ子が姉と泊まりに来てくれました。
猫に会うことがたのしみで、一週間くらい前から、(じぃじとばぁばの家に行くことができるまで)あと何日かを、指おり数えていたそうです。
“希望”が“現実”になった“空間”で、姪っ子が泣いている声が聞こえました(そのとき、私は二階の自分の部屋にいました)。
どうやら、お気に入りの猫の“かえで”にひっかかれたようです。
“かえで”からすれば、ただ、じゃれただけ。
“騒ぎ”がおさまった後、私は下りていきました。
ふてくされたような表情の姪っ子の姿が。
「“かえで”は、うれしくて遊びたかったんだよ」と、私の手の数々の傷(猫が私をひっかいてできた傷)を姪っ子に見せました。
その後、私は自分の部屋にもどり、ヘッドフォンをつけて、映画をみていました。
しばらく経って、母が“かえで”を探している声が。
部屋の扉をあけると、一緒に姪っ子が。
母によると、「“かえで”のことをゆるしてあげる」と、姪っ子が“かえで”を探しているとのこと。
“傷”が成長させてくれる。そうしたありきたりのオッサンの教育論にもっていく誘惑に駆られることがないわけではないのですが。
ただ、私自身、微かな傷を放っておいて蜂窩織炎になって(一週間、点滴に病院に通ったことがあって)からは、オッサンも“傷”には敏感に。
“知恵や教訓(といった思い込み)”や“直感”のあいだで揺らぐ経験をさせてくれた姪っ子に、感謝しています。
蛇足ですが、今回の姉の“帰郷”に際して、姪っ子の宿題をみるように(間接的に)頼まれていました。
勉強をする方法に多くの課題があったのですが、姪っ子が宿題をこなすのを、“ただ”みていました。
そのとき、姪っ子が、「おじさんは、小さいころ全然勉強をしなくて、ママ(私の姉)にゲームを渡さなかったんだってね」と。
そう言ったあとの、姪っ子の、なんだか確信にみちたような表情に、頼もしさを感じた次第です。