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2021.Oct.15〔Friday〕
有限な存在が、無限の可能性を観想するための最低条件
こんにちは、塾長の太田です。
最近、成長著しい、ある中学2年の男子生徒さんがいます。
当塾は、1コマで1教科を指導するという形態をとっておらず、生徒さんの自習達成度をある程度の前提としながらも、トータルに観ていきたいという姿勢で指導をしております。
その生徒さんは、今回の定期テストにおいて、ある特定の教科(その教科において、今後、最重要となる単元)につまずきが見られたため、この1ヶ月間、当該教科に専念して指導を行うことが最良と判断し、その教科の指導を集中的に行いました(もちろん、それ以外の教科を練習していただくよう、お話はしました)。
その結果、当該教科は、私の心配をよそに、現状維持プラスの結果であったとともに、練習していただくようただ促しただけの教科が、すこぶる良い結果でした。
その生徒さんは、本日、当塾の重い扉を、軽々と開けて入ってきました。その瞬間、私は、全身で、その空気感をうけとめました。そうした空気感を感じることができることほど、この仕事をさせていただいていて、幸せなことはありません(点数そのものを見ること以上に)。
その瞬間、栗田勇氏の次の言葉が思い出されました(『日本文化のキーワード』祥伝社:p.202より引用):
…日本人が利害打算を離れて、深い感動にうたれたときに、分析的な思考以前の、根源的な存在を揺さぶれたときに発する叫びが、「あわれ」「あっぱれ」という言葉である。…元来、日本人のものの考え方の持ちようは、分析よりもトータルにとらえようとするところにある。
塾を営む以上、分析的な思考(分析的に特徴・傾向を把握し対策を練ること)は、当たり前のことで、それができなければ、スタート地点に立つこともできなく、そうでなければ、分析的思考を得意とするタブレット端末に、私自身の棺に砂をかけてもらうことになりかねません。根源的な存在を揺さぶれたときに発話するためには、それ以前の状態にいることが最低条件です。
生徒さんをトータルにとらえようと希求する存在でありながら、生徒さんにその希望を照射していただける瞬間に立ち会えることは、当塾が特定の場所に生命を宿していることの意義を教えていただき、生きる希望を教えていただいているようであり、探すことばもありません。
新しい何かを創造するのは、常に生徒さん。詩的創造は、常に生徒さん。
講師は、既にそこにある現実に即して未来を夢見る、現実的事象の尻拭いをするリサイクルペーパーのような存在にすぎません。
ただ、命ある限り、リサイクルペーパーであり続けるために、創造的思考の底面をなす土台となるために、分析的思考が出発点であると認識し、それが、夢を見させていただく唯一の基盤であると再認識する次第です。その上で、生徒さんを観察することに命を捧げることが、”詩的創造”に立ちあう機会を得るための最低条件であると改めて肝に銘じて、明日からの指導に臨む所存です。