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2022.Nov.6〔Sunday〕
本と靴
こんにちは、塾長の太田です。
先日、クローゼットの下に埋もれていた資料を“発掘”した際に、ある雑誌の切り抜き(私が気になった部分を切り取って保存していたもの)に目が留まりました。
『Free&Easy』という雑誌のなかで、表参道にあったヴィンテージを取り扱う『PUEBLO』というお店のオーナーの浅川栄治氏のことが紹介されていました。
その記事のなかに、次のような描写があります。
「他人の足の型がついたユーズドのシューズは扱わない。選び抜かれたデッドストックのドレスシューズは手入れを欠かさない」
私は靴が好きで、知らず知らずのうちにたまっていってしまいます。
部屋に箱ごと積み上げられた靴は、ときおり、眺めるのも楽しくて。
定期的にお気に入りの靴を磨いていると、映画『アメリ』のひとコマを想起します。
私の部屋に積み上げられている(棚におさまりきらずにいる)ものには、本もあります。
本は捨てられず、売ることも想定しておらず(私は、本を読むときに、線を引いたり、書き込んだり、折り目をつけたりして、読んでいきます)。
中古の本も、ほとんど買いません(中古でしか入手できない場合は別として。また、神保町に行く機会もめっきり減りました)。
本は、“自分”がおぼろげに思っていたことを顕在化してくれたり、まだ見ぬ景色に連れていってくれたり…。そうしたときに、新しい世界が生成されます。
そうした意味では、本をめぐる世界は、“自己”の中に閉鎖されておらず、“他者”とつながっていくものです。その反面、何か新しい出会いを求めて(それが形式なものであることをわかっていながら)、“新品”の本を買っているのかもしれません。
靴と本について考えていると、村上春樹氏の『雑文集』の次の一節が思い出されます。
「…我々小説家が提供できる物語は、たかがしれたものだ。僕らにできるのは、いろんなかたちのいろんなサイズの靴を用意し、そこに実際にかわるがわる足を入れてもらうだけのことだ。時間がかかるし、手間がかかる。うまくサイズの合った靴が最後までみつからなかったということだってあるかもしれない。そこには保証付きのものはほとんど何ひとつないのだ…。
それでも総じて言えば、文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきた。文学というものの中にはそのように継続性の中で(中においてのみ)語られるべき力強い特質がある。」
村上春樹氏がおっしゃっていることを考えると、もはや、なにが“新品”か“中古”かということは、本質的な問いではないことに、気付かされます。
以上のことを、学習塾という文脈で考えたとき、見えにくいものでありながらも、ほんとうに大切なことを、突きつけられているような気がして、今日も眠ることができません。
クローゼットの下に“眠っていた”資料を契機として、自然と展開された思考が、ドーマント(dormant)な私を開眼してくれたことに感謝しつつも、眠りにつけることを懇請しつつ、明日に向かいます。