ブログ
2019.Jul.18〔Thursday〕
“歯ブラシ”と“辞書”
こんにちは、塾長の太田です。
中年になると、歯のケアに力を入れざるをえなくなります。
歯ブラシの毛先が開いても、若い頃はそれでやり過ごすことができましたが、中年になると、その異変が、歯磨きをしてもネバネバ感がとれなくなることから、違和感につながります。
歯ブラシは消耗品で、その消耗品の顧客の歯も、これまた消耗品です。
そこには、消耗品の歯ブラシの山と、使い古され急勾配の谷のように肩身が狭くなった歯がおりなす光景が広がります。
現役選手を退こうとする歯が、これまであらゆるものをかみ砕いて頑張ってきた蓄積を忘却の彼方においやれるのではないかという不安とともに、そこに存在します。
使い古された歯ブラシに目をやると、使い古された辞書のことが思い浮かびます。
辞書の数多あるページは、何回もページをめくることを繰り返すと、紙の重なりが不整合を起こし、歯ブラシの毛先が開いたような景色を露呈します。
その不整合は、格好悪いかもしれないけれど、何とか頑張ってきた歴史を証明するものとなります。
歯ブラシ一本一本は消耗品で、辞書はそれ自体消耗品ではないかもしれませんが、いずれにしても、双方とも、あまり人気のあるものではないようです。
先日、ある生徒さんが、サンダルの底がめくれている話をしてくれました。
実は、最近、授業以外のときも、足しげく自習に通ってくださる生徒さんが増えています。
ある生徒さんは、車や電車で40分以上かかるところから、自習にお越しくださっています。
靴の底がめくれる程自習にお越しくださり、また、歯を毎日磨くように学習をする生徒さんのこれからの歴史はどのようなものになるのか、とても楽しみです。
理路整然と区画整備された平坦な道を歩み続けることは、危険に気が付くことができないようになることを意味するかもしれません。
不整合な道を歩むのが人間の本性でもあるかもしれませんし、不整合な道を歩んできた私は、たとえ一見格好悪くても不整合の積み重ねがもつものの一つの側面をお伝えできたらと思い、明日からも指導に臨みます。