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ブログ

2022.Aug.21〔Sunday〕

“物質”と“記憶”

こんにちは、塾長の太田です。

先日、小学二年生の姪っ子があそびに来てくれました。私の部屋の扉にかかげてある東南アジアの布をみて、姪っ子が「こわい」といったときに、感じたことを記します。かく言う私も、昨夜『ほんとにあった怖い話 夏の特別編2022』を帰宅後にたまたまテレビでみて、「こわい」と心のなかで叫んだばかりです(こわいことは嫌なのに、こわいもの見たさの原理は不思議です。このブログは、そうしたこととはほとんど関係のない内容ですが)。

“ある物”を目にして、ふと、“ある人”のことを思いだすことがあります。

それは、よき思い出への入り口でもあれば、思いだしたくないことへのトンネルへ入ることでもありえます(いずれにしても、現在の自分が過去を再構築することで、“記憶”がかたちづくられていることに変わりがないとしても)。

大学時代。

片思いをしている女性がいました。その女性は、黄色い自転車に乗っていました。

住んでいたアパートから最寄りの山手線の駅に歩いていく途中に、インドカレー屋さんがあり、そのお店の前に黄色い自転車が置かれていました。そこを通るたびに、叶わぬ夢をみている自分が、“客観的現実”の裁きの前にさらされているような感覚を覚えました。

当時のその瞬間における短期的記憶は、“カテゴリー”(黄色い自転車という物質)から“個”のながれにささえられていたといえます。

その一方で、私の部屋の扉に掲げてある“布”。

大学生のとき、インドネシアのスラウェシ島に旅したときに、買ったものです。値段交渉をしたときの、女性の言動を、いまでも克明に覚えています。

この記憶は、“個”から“個”のながれにささえられているといえます(もちろん、それぞれの“個”がそこに成立していた背景には、その物質の原料をつくった人々・その物質を織りあげた人々、それを買う私がその場所に至るまでに、私の生に関係してくれた人々や、その場所に至るまでの運輸にたずさわった人々を始め、多くの人々がいたという事実がありますが、この文脈ではそうしたことを問わないものと仮定して)。

いずれにしても、二つのものの関係性を必然的にむすぶ客観的な理由は、何ひとつありません(そうした二つのものを結びつける現在における自分という存在が、対象に向けての唯一の出発点です)。

とても恣意的なものでありますが、そうしたことが人の認識に作用することは、おおいにあるというのも否定できない面があります。

指導とは何か、そうした要素をはらんでいるものであるかもしれません。

そうしたきっかけをつくる方向性を希求して、全力でまじめにものごとに取りくむことが、出発点にいる私どもにできることだと、あらためて感じます。