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2022.Oct.2〔Sunday〕
カラス
こんにちは、塾長の太田です。
一年ほど前のことですが、家族が、興奮して話してきたことがありました。
信号待ちで車を停車させているときに、川沿いに設置されている鉄の柵にとまっていたカラスが、すべって、真っ逆さまに転んだところを、見たとのこと。
すぐに思いうかんだのが、「弘法にも筆の誤り」や「猿も木から落ちる」といった言葉。カラスの賢いイメージとのギャップに、その場面が想像できて、思わず顔がほころびました。
ただ、カラスは、人間の視点からみたときに、ヒール(悪役)でもあります。例えば、ゴミの散乱や作物荒らし、人間への威嚇行動など。
しかし、何だかにくめない存在です。
それはどうしてなんだろうと、少し考えます。
まず、アメリカ北西部の先住民の昔話に、人々に光をもたらしたワタリガラスの話があることに、思い当たります。
また、宮本常一氏の『伝書鳩のように』のなかに、カラスが歓迎されてきた存在でもあることが、「カラスの餅なげ」といった風習(空に向かって餅をなげあげたときに、カラスがその餅をうけとめて山の方へ持っていくような年が豊年とされること)や、「カラス啼きのよしあし」によって豊漁かどうかを見きわめるといった慣習を例にとって、描かれています。
そう考えてみると、カラスは、人間にとって、両義的な存在という見方もできるかと思います。
両義性。
“トリックスター(秩序の破壊者でありながら創造者としての役割もになう両義的な存在)”の意義をあきらかにされた山口昌男氏の研究に言及するまでもなく、カラスは、漆黒の外見を有するとともに、それをまなざす人間存在のつかみどころのない漆黒の内奥を象徴するかのような存在でもあり、結局、私がどうしてカラスに魅かれるかの結論は出ないなかで、カラスに、思考の轍から脱落させられて眩暈をひきおこされているような感覚をおぼえます。