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2023.Feb.4〔Saturday〕
“常に変化している”ということについてーその2―抜け毛
こんにちは、塾長の太田です。
前回のブログで、ある生徒さんが私に教えてくれたのは、自分の思考や自らの在り方を、硬直(コウチョク)させるとダメということ。
それならば、“コウチョク”という響きを少し和らげて、“コウショク”というトーンに変えてみたらどうか。
好色(コウショク)する(している)と…。
私の友人。
「久しぶりに会った人に、変わってないね」
と言われるんだけど…、
「帽子を脱ぐと…」
と言って、見せられて…。
好色に関する欲が強い人は…、頭皮が硬直すると…(神様は平等で、上と下の力を均等に分けてくれないということなのでしょうか)。
私の論の進め方を根拠づけるために、彼の具体例を挙げることは容易ですが、これ以上はひかえます。
上述したことを考えていると、想起されるのが、『好色一代男』。
その物語の終わり方は…。
オープンエンディング。
廣末保氏は『西鶴の小説 時空意識の転換をめぐって』(平凡社選書)のなかで、次のようにおっしゃっています。
「終りの視点から、あるいは終りの視線にそって、断片を序列的に構成し意味づけていく小説、物語の《時間》に、従ってまた、そうした時間意識によって切り取られた小説・物語の《空間》構成に、西鶴の小説は《その小説の形式は》異議申し立てをする」。
少なくとも、硬直(コウチョク)した終わり方ではないということになるかもしれません。
そうなると、抜け毛に関しては、好色ということは、両義的な意味合いを帯びてきます。
“科学的”な話はここでは抜きにして、“リアップ(壮年性脱毛症における発毛剤)”片手に、明日から希望をもって生きていく勇気を、『好色一代男』が教えてくれている、そんな気がしています。
蛇足ですが、公立高校入試や定期テストにおいて、古文での『好色一代男』の出題が皆無に等しいのが気になります。