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個別指導塾|安曇野市穂高|Minori

ブログ

2019.Apr.25〔Thursday〕

明確な対象と深淵なる実体-その2-

こんにちは、塾長の太田です。

日頃、生徒さんの指導を通して、色々なことを教えていただいています。

先日、国語の読解問題を指導していたときのこと、ある生徒さんが「こういった問題はキライ。自分と考えが合わなくて」と言っていました。こうしたことは、指導のなかで初めて耳にするわけではありません。

そうした発言は、大局的にみて中学生はナイーブな時期にあるという事情を反映しているかもしれません。

それは、これまで身に付けてきた価値観が崩れていくなかで、同時に自分の考えを確立しようとしている時期。“他者”からの様々な情報を受け入れたいとは思う部分があっても、ただ単純には受け入れがたい、という複雑な状況があるのは、ある意味、一般的で健全な成長の証しとも言えます。

国語の読解問題の話に戻ると、テスト問題はいたってシンプルで、明確な論理でできている場合が多いです。特に、国語の論説文のテスト問題は、そうした論理を最も具現化したものと言えます。“国語のテスト問題を解く”ことは、“筆者が示している道筋通りに進んでその中で問題に答える”という作業です。テストとは、ある意味、相手の土俵で相撲をとるようなもので、詰まるところ、国語のテスト問題で点数を取るということは、そのルールを受け入れられるかどうか、筆者の立てた道筋にのれるかどうかにかかっています。

オーストラリア・ウィーン出身の哲学者ウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』で次のように言っています:「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできない」

ただ、「国語のテスト問題を解くにはそうしたルールがあるから、それを受け入れてね」と一方的に説明すれば問題が解決するわけではありません。

わかってはいるけれど、単純にはそれに従えないという時期にある生徒さんたちを説得するにはどうしたら良いか、そこに至る道筋は決して一本ではありません。

テスト問題は論理で成り立っていて、勉強をする理由のうちの一つは論理的思考を身に付けるためだと私は考えるのですが、勉強をするのは人間である以上、テスト問題に向かう姿勢を諭すのは論理の力では必ずしもうまくいかないことはおろか、私たち(少年も中学生も中年も)が実際の生活の中で「納得する」ということのしくみは、論理以外のものによることも多いです(別の機会にこの話をしたいと思います)。

ではどうすれば良いのか・・・ということになり、そのことに対する答えはあってないようなものなのですが、今日はそうしたことを考える切り口を与えてくれる見方を一つ。

ゲームが好きな生徒さんは多いです。ゲームはゲームでも、哲学者ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」という考えに基づいた勉強の実践に興味をもってくれたとしたら・・・。

学者の野矢茂樹氏は、ウィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」という概念の一つの側面を、次のように表しています:「意味が実践を確定するのではなく、実践が意味を確定する。」

“探求を可能にするような枠組みをいったん受け入れる→その枠組みをもとに成り立っていることに関する一連の実践に参加する→実践が意味を確定する”といった流れは、狭い意味での勉強に通じるものがあります。

生徒さんが勉強を敬遠する理由には様々なものがありますが、その中には、“楽しくないから”・“勉強をする意味が分からないから”といったものがあるかと思います。勉強のシンプルながら厄介なところは、“勉強が楽しくなる→勉強をする”という順番ではなく、また、勉強をする意味が分かってから勉強をし始めるとしたら半永久的に勉強を始められないという点にあります。実際はその逆で、“勉強をする→勉強が楽しくなる”という順序です。先程の話に戻ると、勉強をするという実践に参加する中で実践が意味を確定するとも言えます。

野茂茂樹氏の話には、まだこの先があります。少し長くなりますが、『知の論理』(東京大学出版会)p.25~26よりその部分を引用します。

「一般的に言って、探求はその探求を可能にするような枠組みをもっている。そして、その探求を続けるということはその枠組みを黙って呑み込むということだから、探求の活動の中にあってなおその枠組みを疑うことはできない。でも、だからといって探求の枠組みをなしているものが疑いえない絶対確実なものだというわけでもない。われわれはその実践の外に出て、こんどはいままでの枠組みを疑う新たな実践へと踏み出すこともできるわけだ。もちろん、そのときには別のことがらが枠組みになっているのだけれどね

そして、こういう構図で学問の在り方を見ると、どういう業績を上げた人が評価されるかが見えてくると思わないか?そう、必ずしも「真理」に到達した人じゃないんだ。より豊かな実践を拓いて新たな蝶番を作り出した人。何かある問題に答えた人よりも、むしろ問題を作り出した人。さらに言えば、さまざまな問いと疑いを生み出しうる場を作り出した人だ。」

この可能性は、AIが発達し今後現実の生活の様々な場面で活用されるようになる現代において、学ぶことを通じて求められるものです。“ルール化”できる定型的な作業はAIが担うようになることが予想される中で、人間にしかできないことは“新しいものを生み出すこと”で、それには“新しいものを生み出す力”が必要です。

ただ、先程の野茂氏の引用の中で言われている「蝶番」を一つの“型”とすると、“型”を破るには、まずはその“型”を学び尽くすことが必要です(この話もいつかしたいと思います)。まずは、出発点をどこに置くか。その実践のために、いかにルールを受け入れるか。

青春期というフィールドにおいて、その出発点は近くて遠いです。

大人の立場からの論理の押し付けではなく。また、論理だけではない人間の認知原理の他の可能性も視野に入れて。さらに、正論や「何を言うか」だけではなく、「いつ・どのタイミングで・誰が言うか」。そうしたタイミングを見究められるように、日々努力しなければと考える毎日です。