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ブログ

2019.May.11〔Saturday〕

「異物」

こんにちは、塾長の太田です。

時間軸のとり方によりますが、“教育改革”が叫ばれて久しいです。

そうしたことは、“学校教育”の文脈で語られることが多いのではないかと思います。

テストの点数の追求や画一化された基準といったことに対する批判が、その基調低音となっているのではないかと考えます。

それでは、塾のあり方は?

それが集団塾なのか、少人数制指導塾なのか、個別指導塾なのかによって、学習塾の目的は様々です。

ただ、学習塾に期待されている役割は?と問われたら、それは、テストの点数を上げることではないでしょうか。

ここで、現在の“教育改革”の骨子の一つである、生徒さんが自分の力で考え問題解決していく力を養うことと、テストの点数を上げることは、決して相反することではありません。

しかし、ここでの一番の葛藤は、成果が出るまでにかかる時間ではないでしょうか。

そこに、模索と煩悶が生まれる余地が出てきます。

 

そうした煩悶を抱えながら、ようやく眠りに落ちると、ある夢を見ます。

その夢に出てくるのは、大学時代に経験した“フィールドトリップ”。

異国で西洋発祥の学問を志す者たちが、さらなる異国の地に赴きその土地で生活を営む人々に対して、質問をぶつけます。

そこに生まれるのは、“希求することそのもの”と、“希求する立場”の間にある相克(“真理”を目指す者が、どのような立場で“他者”に相対しているのか、その足場に関わる問題を無視して通る訳にはいきません)。

ともに普遍的な理論の構築を目指すものであったとしても、人文科学は、物理などと異なり、観察者の視点・立場を抜きにして語ることが難しい場合が多いです。

 

なんだか、学習塾もそれに似ているなぁ、なんて思います。

 

“学校教育”と“学習塾”が異なる点は、“貨幣”とその対価である“価値”を巡るものでしょう。

それが“点数の変化”なのか“姿勢の変化”なのか“自律”なのか。

さらに、どのような“価値”に重きを置くかで、時間軸が大きく変わってきます。直線的な時間か円環的な時間かで“、”価値”がとる形は大きく異なるからです。

ここで詳述することは避けますが、経済人類学の古典を紐解くと、こうしたことは意外と古くて新しい問題で新鮮です。

 

いずれにしても、立場と目的を明確にして、煩悶を抱えながらも、その時点で最大限できうることをするしか、今を乗り越えることができないのではないかという必要性と必然性に立たされます。

少し、整理します。

私どもは、次のことに精一杯取り組んでいます:画一化された宿題で時間を使い果たすことが原因の悪循環を受けての“課題の切り分け”と勉強方法の提案、勉強に対する姿勢の変革、その延長線上に“持続可能な勉強に対する姿勢”の構築と課題解決能力の発芽と向上、さらには、未知の難題に対応する力をつけることの祈りに似た希求。学習塾として、どのような理念があるにせよ、定期テストの点数を伸ばすこと、志望校合格を果たすことが、兎にも角にも狭義の目的であることは疑いようのないことです。理念をもち、日々するべきことに真剣に向き合いながらも、そうした最終目標に向けたアプローチの仕方などに関して、常に模索と煩悶が続いています。ただ、現状を否定するだけでは何も生まれません。画一化されたテストが批判の対象であるとすれば、まずはそれを呑み込んで前に進む、そうした圧倒的な力で何かに傾倒することは、教育制度の現在地・その過渡期・その後、いずれの地点においても、大切な力であるということは、それ程間違っていないのではないかと思います。

 

こうした話をしたときに、言及しないわけにはいかないでしょう、その方は、白川寧々さん。

今は「乱世モード」として、還るべきは“本質”と仰っています。

最近、白川寧々さんの『英語ネイティブ脳みそ』という本が出版されました。狭義では英語習得法に関する本ですが(その内容も衝撃的なことはもちろん)、私が一番心を動かされたのは、その“本質”に関わるところです。

それは、何かを習得するには、「まわりと違う人間になる覚悟」が不可欠ということ。このことに関連して、「ネイティブ・マインド」(英語実践プログラム)は、「英語というスキルを効果的に学ばせるすごいプログラム」ではなくて、「英語版の自分をつくり上げて、自分自身をすごくするプログラム」であると仰っています。

また、白川寧々さんは、“Hero Makers”というプロジェクトを通して、教師・講師が担う役割の重要性を指摘されています。

ただ、教師・講師は必ずしもカリスマである必要はないということです。

それにしても、私の人生を振り返ると、カリスマ的な力はなく、色々な局面で自己嫌悪に陥ることも多かった人生。

勉強嫌いな生徒さんが勉強を好きになるきっかけになる一つの契機は、講師を好きになってもらうことであるという事実は、自分にとっては一つの「異物」でした。

しばらく、「異物」からは目を遠ざけ、二度とその「異物」と対峙することはないと思っていました。

そんな中、ある一つの縁がきっかけで、改めてこの仕事をはじめさせていただきました。

以前、対決して負けた、「異物」。

 

「異物」というフレーズを、その書物を通じて教えていただいたのは、“本質”ということを体現されている見城徹氏。『たった一人の熱狂』という本での氏の次の言葉は、簡単に挙げることはできませんが、敢えて挙げさせていただきます。

異物を呑み込まなければ成長はない。妥協するのではなく、丸ごと呑み込んでしまうのだ。

異物のような表現者と出会った時に、「嫌いなものは食べられない」と拒むようでは編集者の仕事は面白くならない・・・異物を呑み込めない人に進化はないと思うのだ。

 

私はカリスマにはなれませんが、今そこにある「異物」(“教える立場にあるということ”や“時代の変化に応じた教育の在り方”)と対峙し、生徒さんも今そこにある「異物」(勉強や試験)と対峙し、生徒さんが未知の「異物」と邂逅したときにその「異物」を呑み込んでいけるように、一緒に前を向いて進んでいきたいと思います。

まずは、講師である自分が、常に“圧倒的な努力”をしなければと肝に銘じます。

 

最後に、現時点での自分を鼓舞してくれる言葉があります。やはり、見城徹氏の言葉です。

「受験とは、自己検証する能力を培うことだと僕は思う。僕たちは受験勉強の過程で、自分の足りない部分を振り返り、補っていくことで、成長するという経験をしている。だから、受験勉強で学んだ内容そのものよりも、受験勉強で身についた自己検証能力こそが、社会に出た時に役立つのではないだろうか。自己検証と、そこから生じる自己嫌悪・自己否定は、人生の確かな前進に欠かせないものだ。」