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2022.Sep.21〔Wednesday〕
そよ風と少年
こんにちは、塾長の太田です。
きのうの夜(4時前)、塾の準備と読書の合間に、まどろんでいたところ(カーテンはしめたままで窓はあけていました)、面にあたるそよ風を感じました。そのうち、ぱらぱらと降る雨音がきこえてきて、異国の地にいるかのようなきもちになりました。
そんなことがあって、昨日の授業に臨んでいたところ、小学6年生の生徒さんの口から出たのは、「方程式」の話題。
少し前から、計画的(でありながらも断続的)に「正負のたし算・ひき算」の予習をはじめてはいたものの、「正負のかけ算・わり算」や「累乗の計算問題」が私のあたまの中にあったため、「方程式」はもう少し先のことと考えていました。
ただ、あそび感覚でやってみるのもいいなと思い、「方程式」の講義と実践練習をしました。
以前、「正負のたし算・ひき算」の感覚をすぐにつかんだ彼。「方程式」の基礎的な計算問題も、すぐに解けるようになりました。
「わかるようになると、面白いんだな」と、独り言のようにつぶやいていました。
「今日は、方程式の予習をします」といった具合に、かちかちに授業を始めていたら、その生徒さんは、きっと、そうしたことを口ずさむことはなかったかもしれません。
その生徒さんの気持ちが、未知の「方程式」に少しかたむいていたところに、何となく話や練習をしたのが、よかったのではないかなと感じています。
その生徒さんの「わかるようになると、面白いんだな」というささやきは、昨夜感じたそよ風のように感じられました。
前回のブログで、“偶然性に身をひらいておくこと”の大切さについて少しふれましたが、昨晩感じたそよ風と雨音がかもしだす心地よさは、そうした環境を待ち望んでいたり、そうした環境をあじわえる可能性が高い場所に計画的に身をおいたりして、同じような現象を感じたとしても、同様の感動はえられなかったのではないかと思います。それというのも、あらかじめ計画して何かをしたり何かを感じたりするということは、過去の“自分”にとらわれていて、“自分”という枠を超えられないものであるからです。
思いがけず、偶然舞いおりてくるものにより、“自分”は相対化されて、まったく違う局面に立ち会えるようになるのではないかと感じます。
そうした意味において、上述した生徒さんのそよ風のようなささやきは、塾という限られた空間における指導について、大切なことを伝えてくれているような気がします。
諸々の“現実的条件”もてつだって、予定調和的に指導をする危険性があるなかで、なにかにとらわれすぎて硬直するアタマや視点以外のものに開かれた姿勢をつねに持っておくことの重要性を、あらためて感じています。
生徒さんをお迎えするにあたって、最大限の準備をするのは当たり前のこととしつつも、講師の計画や視点だけにとらわれずに、毎回変化する生徒さんの様子や状況を観察して、つねに新たな観点が生じる可能性(偶然性)に身をひらき、他の視点への気づきに敏感でいることの大切さを、あらためて生徒さんから教えていただきました。