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2022.Oct.30〔Sunday〕
シャープペンの芯と消しゴム(シャープペンについている)
こんにちは、塾長の太田です。
生徒さんを指導していて思うのは、ほとんどの方がシャープペンを使用しているということです。私は、学生時代から鉛筆派で、勝負(受験)のときは、20本くらい持っていったのですが、最近は、シャープペンを使うようになっています(理由は、最愛の鉛筆削りが“永眠した”ということに求められるのではないかと思います)。
先日、トイレで本を読んでいたときのこと(読書をするときに、気づいたことを書き込んだり、線を引いたりと、シャープペンは常に一緒にあります)。そのとき、たまたま、ある哲学をめぐる本を読んでいました。トイレに持ち込むということで、理由はさておき、ソフトカバーの本を選びました。トイレのなかで、その本に書き込んだことを修正しようと思ったときに、あることを感じました。
シャープペン上部の消しゴムの部分が、シャープペンの本体のなかに完全に入っていて、机上で読書・作業をしているときは、他のボールペンやシャープペンの先端を使って(消しゴムの側面に先端を刺して)、消しゴム部分を上に引き出すのですが、トイレの中では、あるのは当のシャープペンのみ。
仮に、当該シャープペンの芯を抜き出して、消しゴム部分に刺したところで、芯は折れてしまいます。シャープペンの先端部分と消しゴム部分は、眼前で一体となって存在しているのに、上述したことはできません。何ともいえない“歯がゆさ”を感じるとともに、どう表現したらよいのか分からないながらも、プラス方向に傾く気持ちを感じました。
シャープペンの芯が、上述した用途を果たすことができるのは、芯が土台に支えられているからこそ。逆に言えば、芯を“自分”のようなものだとしたとき、土台は“自分自身”ではない、ということになります。“自分”が何かをすることができるのは、シャープペンの芯が拠って立つところの土台のような外部(“他者”)に支えられているからとも考えられます。
そのとき、読んでいた本は、鷲田清一氏の『「聴く」ことの力』。その本のなかに、次のような一節があります。
「わたしは自己のうちに閉じこもることができない。名をもった「だれか」として呼びかけられることで、わたしは〈わたし〉になる。わたしの固有性とは、したがって、わたしがその内部に見いだすもの(わたしがじぶんの能力、素質あるいは属性として所有しているもの)ではなく、むしろ他者によるわたしへの呼びかけという事実のなかでそのつど論証される。まさに〈わたし〉としてのその存在を脱臼させられつつ、である。」
また、上述した状況を別の角度からみたとき、これまで当たり前に使うことができていたシャープペンのひとつの機能(常用的なもの)が使用できない状況に遭遇して、私は、“不自由さ”や“私の不能性”に直面したという言い方もできるかもしれません。
「建築する(アーキテクテング)」ことによって、「新しい生命」の構築に向かうために「建築革命」を実践された荒川修一氏は、『生命の建築』のなかで、次のようにおっしゃっています。
「私の言う身体性とは、コモンセンスおよび道徳から少しでも自由になるために、まず最初に必要なものは「自分」の姿勢を不自由にさせてくれるもの、それが条件の一つです。」
さらに考えてみれば、トイレで本を読む以上、何らかの菌と一緒に本を読んでいるようなもので、人間の体内には多くの菌が住まい、そうした菌と共生している(そうした菌に生かされている)ことをあらためて感じます。この点に関して、福岡伸一氏は『動的平衡3』のなかで、消化管と腸内細菌について、次のようにおっしゃっています。
「消化管は、身体の「内」にあるようでいて、実は「外」である。人間の身体はぐっと単純化すると、ちくわのようなもので…、消化管はちくわの穴。口と肛門で外界と通じていて、消化管の表面は皮膚が内側に入り込んだものにすぎない…消化管の表面は細かいひだがリアス式海岸のように入り組んだ構造をしており、ここにびっしりと腸内細菌が棲みついている」
「私たちの消化管の細胞はたった二、三日で作り替えられている。一年も経つと、昨年、私を形作っていた物質はほとんどが入れ替えられ、現在の私は物質的には別人となっているのだ」
私がつかっているシャープペンは透明なため、なかのシャープペンの芯を通すための部分がまるで消化管のようです。
私が自分の身体の延長のように使いこなせていたと思っていたシャープペンに関するちょっとした体験を契機として、“不自由さ”もしくは“私の不能性”を感じる体験をして、そうしたことにより、私という存在が異化されて…。さらに、“自分”というものが、ゆるぎない存在と思いこんでいるところに、生物学的にみて、常に流れのなかにある存在だということに、トイレという空間で、あらためて気づかされて…。
“ソフトカバー”の哲学に関する本をはじめ、様々な文献が、自己を単一なものと信じて疑わない“私”の強固な城壁の付け根(尻)から、柔らかながらも強靭なタッチで、この私を崩してくれているような、そんな感覚をおぼえた、トイレでのひとときでした。