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2023.Apr.28〔Friday〕
ドラム女子と、ドラ息子(いつまでも放蕩するオッサン)
こんにちは、塾長の太田です。
卒業された生徒さんが、高校の軽音楽部に入ってベースを始められたという話を、先日させていただきました。
その生徒さんのお母さまから、その生徒さんのお友達(当塾に通っていただいた生徒さん)が、高校でギター部に入ってドラムを始められたというお話をうかがいました。
そうしたお話をうかがい、いても立ってもいられず(私事ですが、小学5年生から高校3年生まで、ヤマハの音楽教室に通ってドラムを習っていました)、ドラムを始められたという生徒さんのお母さまに、(その生徒さんと)ぜひ一緒に練習させていただきたい旨のメールを差し上げました。
先日、さっそくお越しいただき、とてもうれしく思いました。
一緒に練習させていただきながら、高校生のときにバンド活動をしていたときの気持ちの昂ぶりを、今、そのまま感じているような心持ちになり、意識が覚醒したのか、その後、この2、3日は、6時に就寝して9時に起きてしまうという状況です。ただ、その後は、さすがにオッサンの私。帰宅後すぐに眠気に襲われ、ただ、音楽を聴くと、また覚醒するといった状況で、肉体は動かずとも、魂は放蕩しているような感覚です。
思い返せば、私が中学生のとき。
反抗期のなかで(生涯、そうした状態は続いておりますが)、根拠のない自信が、“曇天を好む”自分を(ただ単にひねくれていたわけではなく、“晴天”のときよりも“曇天”のときの方が、気分が高揚しました)、ナルシスティックにコーティングしていたような感覚。
思い返せば、私が高校生のとき。
倦怠感や絶望感と根拠のない自信が常に隣りあわせで、そうしたことが、“曇天を好む”自分を、広い空間に敷き詰められたタイルの一角に追いやるような感覚。
そうしたなかで、タイルの一角に追いやられた自分を、タイルに放出された水滴がはねるような世界に、刹那的に連れていってくれるような高揚した気分をもたらしてくれる存在であった音楽。上述したような感覚と瞬間が、パッチワークのように不規則にくみあわされるなかで、展開された時間。
思い返せば、私が大学生のとき。
根拠のない自信は、大空(大きなキャンパス)のなかで、空にあった“はずの”雲のように消え去り…、絶望感(自分はちっぽけな存在であるという実感)と、目的や結果が見えないなかでの無作為な勤勉が隣りあわせのなかで、根のない時空に居場所を求めようとする“カイト”のような自分を、主観とも客観(そもそもそうした立ち位置があるのかわかりませんが)とも言えない“地点”から眺めていたような感覚。
そうした感覚のなかで同居していた次のような実感:大学生のとき、英検のバイトで高校にいったとき、高校の男子トイレの“におい”に、忘れかけていた“勢い”のようなものを感じ、そうした匂いを客観的に感じる自分を“ヤバい”と感じたこと。
この度、“ドラム女子”が、“ドラ息子”に、しばらく忘れかけていたそうした感情を追体験させてくださったことを、ほんとうに有難く思っています。