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2023.Jun.9〔Friday〕
時計(とけい)と毛糸(けいと)
こんにちは、塾長の太田哲です。
さまざまなことにひそむ、共通点と相違点。
休日の夜に、ある映画を見はじめたときに、その映像から感化され、上述したことに思いを馳せました。
表題の時計(とけい)と毛糸(けいと)について、まず、共通点に関して。
循環する(くるくると)という点。
“くるくると”という意味においては、仮に時計がデジタルのものでない場合(“物質的”な動きに限定してみた場合)。
また、思い出の対象になるという点。
おばあさんやおかあさんが、編んでくれたマフラーや手袋という“物質”をまなざして、そうした時の経過を感じることは、自然なことです。
さらに、動きはじめた後は、好きなときに(それが意図的なものか偶発的なものかは問わないこととして)切り取ることができるという点。
毛糸はもちろん、物質的な意味で、切り取ることができます。
時計に関して、たとえそれがアナログ表示されるものであったとしても、たとえば私の場合、4:14を表示していれば、特別な意味を帯びます(誕生日であることから)。
両者に関して、上述したような“回想”は、恣意的なもので、そうした“回想”をするとき、ある特定の瞬間が切り取られています。
つぎに、相違点に関して。
時計(仮に、時計を“時間の乗り物”としてみた場合)は、修復することはできない。
いや、正確に申し上げれば、過去のことを想起することによって、紡ぎなおすことはできます(回想や、過去の“出来事”に関する記述など)。
そうした観点から、上記のことを言いなおすとすれば、“あのとき”に戻ることはできないと表現することができるでしょうか。
その一方で、毛糸から編まれたものは、修復することができる。
いや、正確に申し上げれば、毛糸から編まれたものにまつわる思い出の出発点にある“あのとき”は、修復することはできません。
そうした観点から、上記のことを言いなおすとすれば、毛糸で編まれたものを“物質的”には修復することはできると表現することができるでしょうか(あくまでも当該物質が手元にあり、その一部を物質的に繕うことを、プラスのことと感じるのか、マイナスのことと見なすのかは考慮しないこととして)。
このように、少なくとも“時計”と“毛糸”に関して、物質的・観念的側面から、その共通点と相違点を考えはじめると、くるくると無限円環の世界に投げだされます。
それでは、両者を、表記(ひらがな)的・発音的な側面から眺めたときはどうでしょうか。
“とけい”と“けいと”。
語順がひとつズレただけではありますが、スタート地点では、異なった認識のちがいが生じます。
ここで、冒頭で述べた共通点と相違点に関して、仮に腹話術のように、音がズレてやってくるものだとしたとき、もともと同一の二つのものに関して腹話術を用いて発話したときにちがって聞こえるのか、もともと異なるものに関して、腹話術を用いて発話したときに同じように聞こえるのか。
そうしたことは、発話するタイミングによって変化します。
仮に、学習に、“出発点”と、“出発後の分岐点”があるとするのであれば、それは、自分で“問い”を立てることができるかどうかということにあるのではないでしょうか。
講師は、何かを分かった(世界を切り分けた)錯覚に陥ることなく、無限円環のなかで自らに問いを立て、生徒さん自らが問いを立てることができるように、指導のなかでの発話のタイミングを見計らう感覚を研ぎ澄ますべく修練することが肝要だと、あらためて感じています。