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2022.Oct.2〔Sunday〕
浦(裏)島太郎
こんにちは、塾長の太田です。
初老への旅路の準備段階に入りつつあるなかで、ふとしたときに、過去のできごとが蘇る瞬間があります(今回は、電子レンジで、カップ酒をあたためていたとき)。
刹那的な興奮(幸福感)。
たとえば、根拠のない自信に満ちあふれていたとき。
なんらかのものに合格した瞬間。
恋愛関係が成立した瞬間。
恋愛関係が成立する前(そのときを回顧した瞬間)。
諸外国に旅する道程。
童貞を捨てて…。
人生のなかで、そうした瞬間が訪れないときは長く、そうしたときは、自分の人生の“絶頂期”は過ぎたと感じることが多くありました。特に、もう少し若いときは。
現在、そう感じたときよりも衰え(衰えという名のもとの“成長”によってなのか、そう信じているだけなのか)、相対的な視点を常に意識することにより、“自己”の確立ということを基盤とする“自信”というものが成立する根拠を失い(“手放し”)、“合格”という分かりやすい指標は外から与えられない年齢になり(もしくは、そうした拠り所を求める意義の虚しさに“気づき”)、旅立つ時間的な余裕はなく、たつものも思うようにたたずといった現実のなかにあって、むしろ希望は少なくなっているといった判断もできます。
しかし、不思議なことに、若いころに感じたような“絶望感”は、感じません。それは、老いていくなかで、“老成”しているということを意味するのか。その過程で、感受性も衰退していっているのか。
ただ、以前よりも、ちょっとしたことに“希望”を感じるようになっていることを、感じます(同語反復的ですが)。様々な局面における衰えとともに、“こころ”の振幅もせばまっているのか。
上記のもろもろの疑問に対するはっきりした答えは、分析しようしても、その網の目をかいくぐってしまいます。もしかしたら、その網の目をかいくぐる煙のような、論理をかいくぐる生徒さんたちのつかみどころのなさに、“逆うらしま太郎”のような現象が起こっているのでは、と根拠のない“神話”を構築する誘惑にかられます。
“神話”を構築しては、その脱構築を余儀なくされ…。
もしかしたら、そういったサイクルに生かされているのでは、と勝手ながら感じています。