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2023.Apr.21〔Friday〕
自力で動かしているわけではない“自転車”からみえる“世界”
こんにちは、塾長の太田です。
先日、ある生徒さんのお父様が、生徒さんを送ってくださったときに、私の自転車(私は自転車通勤をしております)の不具合(変速機のギアが効かないといった不具合)を修理してくださるという、大変有難いことがありました。
そのとき、春期講習中に交わした、その生徒さんとの何気ない会話が想起されました(その生徒さんは春期講習中、自転車で通っていただくことが多くありました)。
春になると、風が強い日が多くなるからおたがい大変なこと。その生徒さんが乗っているブリヂストンの自転車への憧憬。私の自転車の変速機がこわれていて、ギアが効かないことなど。
その生徒さんのお父様が、「話を聞いて、先日見たら(私の自転車を)、きっとそうだろうなと」。
そうしたことをうかがって、生徒さんが塾で起きている様々なことを、日頃、親御さんに話してくださっていることをうれしく思うとともに、自転車のベルが時折「チンチン」と鳴るように、私が会話のなかで0.001%の割合で挟む下ネタのこともお話いただいているのだろうなと、感じた次第です。
修理していただいたあとの帰途は、まるで、別の自転車に乗っているような感じでした。
ギアがおかしくなる前とくらべても(さらに、購入した直後と比較しても)、すこぶる調子が良かったです(ギアの問題だけでなく、その他のことに関しても手を加えてくださったのではないかと推察されます)。
また、当日は気がつかなかったのですが、翌日、キックスタンドの変化に目が留まりました。
私の自転車は、ほぼ毎日、倒れていたのですが(知らない間に立っているときがあり、起こしてくれた皆さん、本当にありがとうございます)、明らかにキックして立てたときの角度が異なっていました。
そうしたことを感じたとき、以前、NHKの番組『プロフェッショナル』でみた、一流メーカーが断る修理を引き受けて、依頼された部位を修理するだけでなく、これから不具合が生じそうな部分(客が見えないところ)までみる“予防修理”をされている電気機器のある職人さんのことが想起されました。
また、上述したことを考えていると、私がお礼の言葉を申し上げた時に、そのお父様がおっしゃったことが想起されました。
「余計なおせっかいで。」
一般的な定型句であるかもしれませんが、屈折した人生を歩んできた私は、少なくとも、それが定型表現であるかどうか(定型表現か、本当の意味で発せられた言葉なのか)の識別はできるつもりです(もちろん、そのお父様の有難いお言葉は、肯定的な意味において、後者の意味合いと私は捉えています)。
そのとき、『ぼけと利他』のなかで、伊藤亜紗氏がおっしゃっている次のことが、私の胸につよく響きました。
利他は、「自分がする行為の結果は自分にはわからない」ということから始まるのではないか、というのが最近私が考えていることです。困っている人に手を貸すとか、苦しんでいる人をなぐさめるとか、そういったわかりやすい善行には、昔から警戒感があります。「自分はこんなに善いことをしてあげているのだから、相手が喜んで当然だ」と思ったら、それは相手を自分にとって都合のいい道具に仕立てて、支配しているだけだからです。その意味で、利他には「自分が勝手にやってるだけなのかも」という過剰さの自覚が必要です。
その生徒さんのお父様のご厚意と、そのお父様が体現されていた本来あるべき”利他”の姿勢は、生徒さんに対する“講師”(“教育”にたずさわる者)の姿勢に警鐘を鳴らしてくださいました。
今回の有難い一連のことから、“教育”ということについて、あらためて大切なことを教えていただいた感慨をおぼえ、自らを律していくことの必要性をつよく感じています。