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ブログ

2019.May.1〔Wednesday〕

自習スペース

こんにちは、塾長の太田です。

当塾には、自習スペースがあります(開校時間内でしたら、生徒さんはいつでも利用できます)。手前味噌ですが、机の高さと椅子の高さが本当にしっくりきて、木製の机部分の厚さが絶妙で、椅子に座って机部分に手を置くと、不思議と安心感に包まれます。私も、事務仕事をする際は、自習スペースでしています。



現在のところ、講師が私一人のため、常にアドバイスできるわけではありませんが、自習室に来て下さった生徒さんには、何をどのようにどのペースで勉強したら良いのか立てた計画に基づいて、勉強方法や学習内容のアドバイスをしています。

ある意味で、“通い放題”なので、生徒さんには自習スペースを積極的に利用していただくよう声がけをしています。運が良ければですが、通常指導に似た学習ができるときもあります。

このGW中も、足しげく通って下さっている生徒さんが何人もいて、とてもうれしく思います。

さて、そうした中、自習室という空間(さらには塾という場)について、自然と考えます。

当塾は、生徒さん自身が自ら考え計画立てて物事に取り組んでいく力をつけることを希求しています。それでは、塾という場に生徒さんがその身体をわざわざ運ぶ意味は何か、考えさせられます。

学習は、ある“型”の習得を要求するものである以上、塾という場は、内的世界と外的世界が動的に交錯するダイナミズムを内包しているものでなければと考えています。

今回は自習室がテーマなので、話を限定しますと、自習室という空間が、哲学者の市川浩氏のいう「内部と外部、インテリアとエクステリアの対立と交錯」が展開される「演劇的ダイナミズム」を内包する場であればいいなと、考えています。

市川浩氏は、椅子に関して、「最小限座る機能をそなえたうえで、さまざまな座り方へのズレが椅子のデザインとなる。一つは身体を規正する方向であり、他方は身体にそう方向である」と分析し、その上で様々な例をあげています(『身体論集成』p.193~196、岩波書店)。

例えば、マッキントッシュの椅子は身が椅子にそうことを求めるため「倫理的な椅子」であり、玉座の椅子はそれにふさわしい座り方を要求するとし、安楽椅子は「椅子に身をそわせるのではなく、椅子が自由に身にそってくれる。その結果われわれが座り方を選ばなければならない。この自由がたどりつくのは、意外なことに、自由な身体ではなく、慣習化された身体のパターン(座り方)なのである」としています。また、真ん中に座ると背中が二つのクッションの間にきてしまい、クッションのいずれかの方に身をよせると、その椅子の脚の構造によって、椅子が傾き、身を立て直さざるをえなくなるような椅子を評して、「この椅子はインテリアであると同時に、身体のインテリア(内部)を動かすようなエクステリア(外部)なのである。」と分析されています。

当塾の自習スペースの椅子に座ったときに、「内部と外部、インテリアとエクステリアの対立と交錯」がどのように展開されるのかは座る人によって異なるかもしれませんが、椅子にとどまらず、当塾の自習スペースには、ある“しかけ”があります。

当塾の自習スペースには、隣の生徒さんとの間を隔てる“仕切り”がなく、また、座って教科書やノートに視線を向けているときには外部が見えないだけの壁(板)があるのですが、視線を上に向けると外の景色や指導スペースが見える構造になっています。

そうした構造は、インテリアの見た目によるものも大きいのですが、結果的に、「演劇的ダイナミズム」が生まれる余地があるものになったと、最近考えるようになりました。

完全に隔離された空間で勉強するのであれば、塾の自習室にお越しいただくことで生まれるダイナミズムは抑制されるかもしれません(もちろん、塾のドアを開けて、自宅とは異質な空間に入るという所作により、既にそこには象徴的な意味が作用し始めているのですが)。

さらに、空間の仕切りに関することだけではなく、音に関することもあります。

現在のところ、講師が私一人のため、指導中に生徒さんやお客様がいらっしゃったときにすぐに分かるように、塾内を高い仕切りで区切っていません。そのため、指導の声は絶えずもれるような構造になっています。自習室で勉強している生徒さんに申し訳ないなと思うこともあるのですが、それは、私が指導で説明しすぎることを律してくれる面もあります。また、最近では、声がもれるというデメリットかもしれないことを逆手にとって、生徒さんに、試験のときは気になってしまう不確定要素が多々あるから、普段からそれに慣れておくために自習室で勉強することは良い練習になると説明することもあります。そうしたら、ある生徒さんが、「家でテレビをつけながら勉強したらいいんじゃないですかねぇ」とお話してくれました。ただ、両者が異なるのは、予め自分が予測していて受け入れ可能な領域にある外的な刺激か、そうではなくて予測していないがためにその刺激が入ってきたときに不快領域に入る刺激かという点にあります。

最後は、少し狭い話になってしまいましたが、勉強とはある意味外的な“型”の習得を余儀なくされる部分が多々あるものであるが故に、塾という空間が「内部と外部、インテリアとエクステリアの対立と交錯」が展開される「演劇的ダイナミズム」を内包する場であるように、日々色々な可能性を考える必要があると感じます。