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2022.Jul.24〔Sunday〕
“闘牛”と“黒い布”(再)
こんにちは、塾長の太田です。
先日、新しいものを生み出す前段階にある“型”の習得について、少しふれました。
そうしたことを表しているものとしては、「守破離」という言葉を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。修行の理想的な過程を表した言葉で、その過程とは次のようなものです。
守:教えや型を忠実に守り身につける段階→破:自分なりのやり方を模索する段階→離:新しいものを生み出す段階。
また、歌舞伎や落語の世界では、「型破り」と「型なし」といったことをよく耳にします。
例えば、歌舞伎俳優の坂東玉三郎氏は、師匠である守田勘弥さんという方から次の教えを受けたということです。
「型破りな演技は、型を知らずにはできない
型を知らずにやるのは、型なしというのだ」
しかし、こうしたことを、講師の私がただ伝えることは、生徒さんと同じグランドよりも高い台に立っていると生徒さんに誤解される可能性も孕んでいます。そのとき、生徒さんの眼に映る私は赤い布をもった“マタドール”で、生徒さんは血気盛んな“闘牛”と化すかもしれません。
新たな自分像を確立しようと悩む時期にある生徒さんを導くにはどうしたらよいのか、“闘牛”の比喩のグランドに立つならば、“赤い布”ではなく“黒い布”という手もあるのではないかと少し考えます。
その“黒い布”は、1982年のパリコレクションで、服の既成概念を覆す表現手法で世界のデザイナーに衝撃を与えたとされるもの。1982年パリコレクションにデビューした、ヨウジ・ヤマモトとコム・デ・ギャルソンの服のことです。
シワシワな素材や穴の空いた素材に、オーバーサイズで体のラインが隠されてしまうカッティング。そうしたことは、身体の線に沿った調和に美を見出す西洋の伝統的なファッションスタイルとは全く異なるものだったということです。
そして、当時のファッション(ショー)では、黒は「反抗」などを意味するため、あまり使用されない色であったことも、衝撃を与えた要因の一つであったようです。
新しいものを生み出すには、“懐疑心”や“反抗心”が大切です。
反旗を翻す時期にある生徒さんたちを導くには、単純な“赤い布”ではなく、クールさの中に一匙の毒や狂気を孕む“黒い布”が有効かもしれないと思いますが、その理由には先があります。
「精神そのものが反抗」という理由で「ヘビメタとか、ロックをやってる子たちのことが大好きなの」と語り、伝統的な美に疑問を抱きそれとは異なるかたちを提示した山本耀司氏の次の言葉(田口淑子編集『山本耀司。モードの記録。』文化出版局p.6から引用)からは、“黒”という色の奥深さ(底なしの深淵)を感じずにはいられません。
「音楽家が感性だ味だと言えるまでには、何年、何十年と基本的な練習を積む。デザイナーだって、基本的なテクニックを身につけていなきゃ話にならない。ただ、その中には過去の人がつくった価値観、文化観に支えられた部分があるから大きな矛盾を感じるはず。その矛盾に苦しむべきだ。基礎で苦しんでいるうちに、自分の判断、闘い方がわかってくる。それからすべてのエスタブリッシュメントに反論すればいい。そうじゃなきゃ勝てないよ。」
“赤い布”が好きであるか、“赤い布”を切り裂くか、“黒い布”を勝利の旗として掲げるか、二つの布を合わせてパッチワークとするか、さらに細かく切って縦糸と横糸が織りなす模様を作り上げるか、どの嗜好・方法を選択するかは様々で、その選択に至る過程も多様です。
少なくとも、個別指導塾Minoriという場が、“観光客向けの闘牛場”とならぬように、日々鍛錬と観察を怠ることがないようにしなければと考えます。