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個別指導塾|安曇野市穂高|Minori

ブログ

2023.May.13〔Saturday〕

“じゃがいも”と“バター”

こんにちは、塾長の太田です。

最近では、好みの(女性の)タイプについて聞かれるという場面はすっかりなくなりましたが、そうしたことを聞かれていたときは、“原節子”と答えるか(そう答えたことがあったとき、人生の先輩が、「バター臭いという表現をされることもあるんだよね」と教えてくださいました)、マンガ(アニメ)『美味しんぼ』のある話のなかに出てくる“東欧のレストランではたらく哀愁ただよう女性“と答えるかと(”東欧“ということに関しては、下記で明らかなように、実際はドイツでしたが。単なる記憶ちがいといえばそうですが、しかし、そうした“分類”は、特定の時代や、どの国からの視点で見るかで決まるため、むずかしい面があります)、相場が決まっていました。

昨夜、Amazonの“prime video”で何かみようかと検索していたとき、『美味しんぼ』が出てきました。そのとき、上記の記憶がよみがえり、当該エピソードがないかスクロールしていったところ、出会うことができました。

Amazonにおける当該ページの紹介文をもとに、その話のあらすじを記しますと、次のようになります。

「(山岡)士郎(主人公)は、ドイツの豪華客船のシェフ・寺杉に、彼が昔修行をしたドイツ料理店・ハンザ(マンガの設定で横浜にある)の味を確認してきて欲しいと頼まれた。彼はかつてオーナーの娘(サビーヌ)と婚約までしたが、不幸な事件(偶発的な出来事のために、10年間服役生活を余儀なくされた)のために別れたきりだと言う(出所後、寺杉は厳しい修行を経て、豪華客船のシェフになって“今”に至る)」(寺杉がシェフをしている豪華客船はたまたま横浜に停留していて、その一週間後には出港し、次に横浜にくるのは5年後とも10年後ともわからないといった状況。そうした状況のなかで、寺杉は偶然、山岡に出会った)

(上記のあらすじに補足をすると)

“山岡”と“栗田(山岡が勤める新聞社の同僚)”がハンザに行ったあと(ハンザでは“サビーヌ”がシェフをしていた)、“寺杉”に頼まれたハンザのメニューを“寺杉”にみせると、「サビーヌは私のことを忘れている(もう会いたくないという意思表示がメニューからわかる)」と。その理由は、“寺杉”の一番の得意料理であった“マッシュルームのスープ“と”じゃがいものパンケーキ“がメニューにないから。

“山岡”は、“寺杉”から当該料理の作り方が記されたノートを借り、その後、“山岡”が勤務する新聞社のドイツ料理特集の記事にするべく、ふたたびハンザへ(“山岡”は、“寺杉”にハンザに来ないかと誘っていた)。

ハンザで取材をしているときに、“寺杉”が姿を現す。

“山岡”が、“マッシュルームのスープ”と“じゃがいものパンケーキ”を二人(“寺杉”と“サビーヌ”)に供する(“山岡”は、故意に、“寺杉”から借りたレシピとはちがう方法で“不味く”作っていた)。すると、“サビーヌ”が厨房に向かい、“じゃがいものパンケーキ”をつくって、“寺杉”に…。“特別な料理”は、いつか“寺杉”が帰ってきたときにつくろうと、メニューには載せていなかったと“サビーヌ”が打ち明ける…(“サビーヌ”は“寺杉”を待っていたのです)。

以上のことに心を動かされているときに、鷲田清一氏が『「待つ」ということ』のなかでおっしゃっている次のことが想起されました。

意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、〈待つ〉ということがなりたつ。

“自分”(ある特定の個人)にとってほんとうに大切なことは、こちらが求めているときに偶然出会うことがあり、その後、そのことを日常生活の喧騒のなかで忘れかけていたときに、こちらが無意識のなかで、かわらず“求める意志”のようなものを発出したときに、あらためて現出するようなものであることを、あらためて感じました。

いずれにしても、日常生活の喧騒のなかに埋没せず、絶望のなかにあっても祈ることを忘れず、努力しつづけることでしか、光はみえてこないと感じています。

蛇足ですが、“サビーヌ”が“じゃがいものパンケーキ”をつくっているときに、“バター”らしきものを投入していたことが気になります(私の好みに関して、“原節子”と“サビーヌ”の接点がここにあったとは…)。