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個別指導塾|安曇野市穂高|Minori

ブログ

2023.May.8〔Monday〕

“森高千里”―その1-

こんにちは、塾長の太田です。

5月7日にテレビで放映されたあるお笑い番組で、志村けん氏のモノマネをする方が、志村けん氏の“装い”のまま、福山雅治氏の歌を福山雅治氏の声をまねて歌うという一節がありました。

技術が進んでいる現在において、そうした“パッケージ”を呈すること自体は、AIでもできることかもしれませんが、『千鳥』の大悟氏が“総合”される役を司っている番組で、モノマネの技術を有するお一人の方が実演される映像を目にして、静かだけれども、“感動”(喜びと苦悩が同居するような余韻)が、明日からも続くような気持ちの振動を感じました。

その時、アタマに浮かんだのが、YouTubeでみることができる『方正さん 夜の口パクヒットスタジオ 【17歳 森高千里】』。

小・中学生を指導させていただいているため、自然と、そのころの自分を想起することがあります。

当時、バンド少年だった私は、洋楽に狂っていた一方で、憧れの念を抱いていたのは、森高千里氏。

実は、今回のできごととは他に、一年くらい前に、あることを契機として、当時の思い出に私を連れもどしてくれたきっかけは、YouTubeで観た山崎邦正(月亭方正)氏の『Gollum- Smeagol Funny Japanese Show』。

そのとき、それをもとに、次のYouTubeの鑑賞の連鎖となりました。

→『方正さん 夜の口パクヒットスタジオ 【17歳 森高千里】』

→森高千里 『二人は恋人』 (PV)

上記のYouTubeの連鎖が、私の小学生時代のある思い出の場面に連れていってくれました。

あるスキー場のゴンドラに乗っていたとき。

“森高千里”のことがアタマから離れない。

将来、“森高千里”と…といった、根拠のない自信が(ゲレンデの雪がとけるようには、“視覚的には見えないこと”が起因していたのか)。

“根拠のない自信”の一方で、あきらかに感じていた“確信に満ちた切なさ”(雪はとけるものだという知識が、その実感に起因していたのか)。

また、上述した『二人は恋人』 (PV)について。

当該映像で展開される映像は、白黒。

“白黒”には、“はっきり白黒つけようや”という側面と、“そうした二項対立に収斂されない想像力をかきたてられる”という側面が、同居しています。その根拠は、“理”(ことわり)を知りつつも、それにおさまりきれない人間が、そうした世界を、まなざしていることに求められます。

大学生のとき、10㎞先の新宿のレンタルビデオ屋さんに自転車で赴き、毎日ビデオを3巻借り、古今東西の映画を見漁った私が(白黒の映画が好きで本当にたくさんの映画をみました)、上述した問いを突きつけられているなかで、ここは、自分のムードにあったものを選ぶ方が簡単ですが、そうすると、自分が得るのは、“安心感”だけ。

自分を真の意味で成長させてくれるのは、“自分と異質なものに出会った”とき。

私が感情の機微として尊重する“グレーゾーン”に最大限の価値を見出すのか、それとも、一見、単純にみえる白か黒かの世界に身を呈するのか。

そうしたことに悩んでいるなかで、上述したテレビ番組のなかで実践されていたのが、いま注目されているお笑い芸人(グループ)のなかの一人を、他の芸人がプロデュースするといった企画。

そうした試みのなかで、働きかける側も、実践する側も、実践された側も、出会うのは、“自分とは異質なもの”。

私が、机上に積んである10,000冊の本から何かをつかみとろうとしているなかで、炬燵に寝転がりながらみていたテレビ番組が、本当に大切なことを教えてくれていると感じた次第です。

ただ、机上の本の積み重ねがなければ、いま、“別の場所”で“現実”に起こっていることに対する感受性を養うことができなかっただろうとも感じています。

“過去に起こった(だろう)こと”、“現在起こっている(そうしたことを特定の位置からながめている)こと”、“未来に起こるかもしれないこと”に対して、真摯に向き合うことでしか、今の自分も、明日からの自分もない、とあらためて感じています。