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個別指導塾|安曇野市穂高|Minori

ブログ

2023.Mar.10〔Friday〕

どこかにありそうで、でも、どこにもないような気持ち。

こんにちは、塾長の太田です。

長野県公立高校入試後期選抜が終わり、中学3年生の皆さんが卒業されました。

多くの生徒さんが毎日のように自習にお越しくださり、私もその熱意に応えるべく、精神的な意味だけではなく、物理的にも全力で過ごしてまいりました。

そのように過ごしてきたなかで、中学3年生の皆さんが卒業されると、いつも、目の前で勉強していた生徒さんたちがいないという現実を目の当たりにして、とても淋しい気持ちで過ごしています。

そうしたなかで、次のような“きもち”が想起されます。

幼少期、たまにしか会えない友人と過ごして、その友人を見送ったあとに感じたきもち。

幼少期、親戚の家で、どこのだれかは分からないけれど、きれいなお姉さん(きっと遠い親戚だろうということはわかりました)が、私と少し”電話ごっこ”をしてくれたあと、そのお姉さんを見送るときに感じたきもち。

何か一つのことに向かって、友人たちと切磋琢磨して、そのイベントが終わったあとに感じたきもち。

外国で過ごしたときに、外国の恋人と空港でわかれるときに、もう、これで会うことができるのは、最後ではないかと、心のどこかで感じたきもち。

もちろん、私がこう表現することで、生徒さんたちと“わかりあえていた”ということを意味するのでは決してありません(そもそも、上記の私の記憶は、私の幻想だけだったかもしれません)。そうした気持ちは、私の一方通行の気持ちです。しかし、そうした気持ちを現実のものと私に錯覚させてくれるほどに、生徒さんたちの眼から生命力を感じた私がここに存在しているのは事実です。

そうした気持ちに共通するのは、もしかしたら、自分に近いところにありながら、自分と同一化することは決してできなくて、また、旅路において、特定の目的地の始点と終着点のあいだにのみ、刹那的にすがたをあらわす“憧憬”のようなものなのかもしれません。

学習塾という特定の場所で働かせていただいていて、毎日、本当に多くのことを生徒さんから教えていただいているのですが、特にこの2ヵ月間は、いろいろな意味で、生徒さんに、こころを揺さぶられました。換言すれば、生徒さんにどこか未知のところに連れていかれるような感覚と表現することができるかもしれません。

学習塾は、金銭を媒介とした“契約”のおかげで成立しているものではありますが、“契約”をこえたおおきなものを、生徒さんからあらためて感じさせていただいているのと同時に、そうした“契約”により物理的に終焉をむかえる、人間の生活やそうした生活の根源にある人体の生命の本質的な“リズム”のようなもの(ひねくれた表現にすることを許されるのなら、複雑なリズムに内在する“歓喜”や“悲壮”や“諦念”や“期待”や“未来”や“過去”や、“ポリリズム”とも“ポリメトリック”ともいえるようなもの)が、頭や心の整理がつかないなかで、永遠に処方薬が見つかる手立てがないなかで、私のなかを駆け巡っています。