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個別指導塾|安曇野市穂高|Minori

ブログ

2023.May.26〔Friday〕

“老化”と“明朗化”

こんにちは、塾長の太田です。

先日、ハッとしたことがありました。

ヘッドフォンをして音楽を聴いているとき。

目薬をさそうとして、メガネではなく、ヘッドフォンを外そうとしていた自分に気がつきました。

ヘッドフォンを外す直前に気がつき、“事なきを得ました”。

その後、しばらくして、私にやってきた疑問。

“老化”は“退化”なのか?

“進化”は、はたして“進化(深化)”なのか?(“進化”と“深化”は、異なるものなのか?)

そもそも、“進化”とは、何なのか?

字数の制限もあり、ここでは、“感覚器官”という観点からみた上記の問いについて。

そうした観点から鑑みたとき、伊藤亜紗氏が、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のなかでおっしゃっている次のことが、示唆に富んでいます。

耳で「見る」、目で「聞く」、鼻で「食べる」、口で「嗅ぐ」。

手が「読ん」だり、耳が「眺め」たり、お尻が「透明を感じ」たり…つまり私からの提案は、「何かをするのにどの器官を使ったっていいじゃないか」ということです。大事なのは「使っている器官が何か」ではない。むしろ「それをどのように使っているか」です。

「読む」「眺める」「注目する」といった私たちの能力は、特定の器官の機能なのではなくて、「パターンを認識してその連続に意味を見いだす」「すぐに必要のない情報をキャッチしておく」「特定の対象を選択して知覚する」といった認識のモードないし注意のタイプに対する名前と考えるべきではないでしょうか。(ここでは、一部の引用で恐縮ですが、伊藤亜紗氏は、こうした提言を実証的研究をもとにして、展開されています)

最初の話に戻ると、そのとき、私の目と耳が“共振”していたかもしれません。

そのとき、目薬(水に“近い”液体)を“正しい”器官にむけてさそうと、“理性”をふいに働かしてしまった自分は、諸器官が協働性を発揮した貴重な瞬間に、水をさしてしまったのではないかと、その瞬間を省みます。

“この場面はこうするべき”という強靭な牙城を崩すのは、“一滴の水”からはじまる可能性を感じながら、“この場面はこうするべき”という強靭な牙城を築くのは、“鍬の一振”からはじまる可能性を同時に感じています(“学習”に関するものというこのブログの“文脈”において、“地を耕す”ということに関して言及したとき)。

水中において音が伝わることを鑑みるとき、空気が振動する始点は、生徒さんにあり、“ある特定の壁”(学習塾という文脈においては、”視点が限られた壁“)を乗り越えるためには、上述したことの強弱の匙加減を、講師が毎日、“架空の固い地盤”を貫く覚悟でその地盤を耕しつつ、やわらかな雨水や地下水が湧出することを希求するほかには、明日から生きる道はないと、感じる次第です。